写真提供  高橋屋観山荘
                                         資料提供  慶應義塾大学

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平塚 縄手道
保永堂版(天保三・四年頃刊)



 縄手道とはたんぼの中の道のことで、東海道は平塚の宿はずれを西に向って伸びている。右方が宿場である。向かいに聳えるまん丸い山は高麗山である。当時は「コマヤマ」と呼んでいたようだ。この山の左側に次の大磯宿がある。平塚との間は二・九キロメートルとあまりに近距離であったので、平塚・大磯の両宿は客引合戦が盛んであった。平塚側では夕方近くになると、「あの高麗山を越さないと、大磯には行けません。」と高麗山を利用して、騙して引き止めていたとも、いわれている。その右方には白い富士山の頂がのぞいている。右側の尖った山が、藤沢宿にてふれた大山の山容である。松並木を過ぎ、遠方に小さく描かれる太鼓橋は両宿の境にある花水川にかかる花水橋である。画面の手前に道標と立札がみえるが、宿場の西はずれの棒端であろうか。とすれば、すぐ右には平塚の宿場の建物が並んでいることになる。棒端とは宿場の出入口に榜示杭が建てられていたので、そう呼ばれている。左側の棒杭は宿場間の道しるべで、右はお定め等の立札である。左方から威勢のよい飛脚が、平塚宿に向かって駆け抜けてくる。この東海道の錦絵は京都へと西上する姿を順動にしているので、この飛脚の逆行する姿はのんびりとした田舎の景色に、ピリッとした刺激を与えてくれる。右側には対照的にゆっくりとした足取りの空駕籠を背負った駕籠屋が、大磯方面に歩いている。平塚まで客をのせていった帰り駕籠であろう。東海道には松並木が続いているが、これは絶えず幕府が並木の維持につとめ、根回りの管理や枝落しをさせていたせいである。現在、旧東海道の松並木が弱っていると、新聞等で問題にされることが多いが、自動車の排気ガスによるばかりではない。空気のきれいな当時でさえ、充分な手入れをしていたからこそ、こうした松並木の存続ができたのである。

文献:慶應義塾大学 三田情報センター 文献シリーズ22≪広重 東海道 錦絵を読む≫
  ※ お断り
 広重は生涯で出世作「保永堂版・東海道五十三次」のほかに20種類以上の東海道錦絵を描き続けたとされています。(文献 はしがきより)
 そのため、絵皿の風景と宿場の解説が一致していないものもございます。
 ご承知おき下さい。


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