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| 写真提供 高橋屋観山荘 |
| 資料提供 慶應義塾大学 |
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水 口 行書東海道(天保後期刊) |
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水口は加藤家三万五千石の城下町である。その宿内の木賃箱が描かれている。主人が家の前で、藁を石の上に置き、槌で叩いている。広重の他のシリーズでは、『人物東海道』の藤川・『木曽街道』の御嶽も木賃宿のシーンである。いずれも障子に「木ちん箱(きちん箱)」と書かれている。普通の旅籠とは違い、食事は客が自炊して火を使うため、木賃だけを支払う宿である。この絵では既に六十六部が宿りに着き、一日中背負った厨子を壁ぎわに置いている姿が見える。今、一団の老若男女が来る。年寄り二人の巡礼と子供を懐にいれた女は一緒であろうか。二人は笠を被り、袖無し羽織にも似た笈摺(おいずる)を着た、典型的な巡礼の格好である。子供連れの女の旅には、深い事情があるようにも思える。その後ろの少年は柄杓を持っているので、四日市でふれた伊勢へと向かった抜け参りの子どもであろう。この五人は貧しいもの同士、旅は道連れというわけで、どこからか、一緒の旅になってしまっているのかもしれない・この絵には見えないが、前記の二図には部屋のまん中に炉が作られ、鍋・釜で煮炊きがされている様子が描かれている。木賃宿は当時は大道商人や、街道で喜捨を願うような巡礼・六十六部・下等芸人など貧しい人々の泊まる宿屋であった。御安宿・雲助宿とも呼ばれた。明治時代になっても、一般の宿屋とは区別され、「宿屋営業取締規制」では「木賃宿は飲食を供せず、薪炭その他の諸費・席料を受けて、以て人を宿泊せしむるもの」という。江戸時代初めまでの宿屋は、大体木賃宿と変わらなかったようである。その後、宿屋が食事を作る旅籠が一般となってから、大名の本陣での自身賄い(48関にて述)や木賃宿がこうした宿泊方法の系譜を引き継いでいたようだ。この他、江戸時代には木賃宿と旅籠の過渡期にも思われる、宿屋が米と薪を提供して、客が自炊する木銭米代という宿泊方法もあった。
文献:慶應義塾大学 三田情報センター 文献シリーズ22≪広重 東海道 錦絵を読む≫ |
| ※ お断り 広重は生涯で出世作「保永堂版・東海道五十三次」のほかに20種類以上の東海道錦絵を描き続けたとされています。(文献 はしがきより) そのため、絵皿の風景と宿場の解説が一致していないものもございます。 ご承知おき下さい。 |
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