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| 写真提供 高橋屋観山荘 |
| 資料提供 慶應義塾大学 |
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関 狂歌入東海道(天保後期刊) |
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早朝の本陣、大名行列の出発風景である。毛槍をもつ槍持ち二人と先箱(行列の先頭で挟箱を持つ人)二人が、先ほどから出発待ちをしている。殿様の乗る御駕籠が出発するため、家臣や本陣の一同も土下座している。大名は戦時体制の形式をとっていたせいか、料理人や鍋釜も用意し、木賃宿同様に自炊であった。関宿には、川北本陣と伊藤本陣との二つの本陣と、脇本陣二軒があった。保永堂版もまた本陣の早朝を描いているが、伊藤本陣ともいわれている。この絵も同図と似ているが、門の位置が違うようだ。本陣とは元来は戦時の武将の宿営のことであるが、寛永頃から現在のような本陣と呼ばれる宿泊施設ができたようだ。大名・公家・高家・旗本の宿泊所として使われていた。本陣の主人はその地の名士で、宿場役人の問屋や名主などを兼ねているものが多かった。この他に副本陣ともいえる脇本陣があり、勅使・院使など格の高い公家が本陣に泊まる場合には、大名も脇本陣に泊まらねばならなかった。脇本陣はこうした高貴な人を泊めていないときには、通常の旅籠と変わらなかった。本陣と脇本陣は、門・玄関・書院を作る特権が認められていた。大名同士や公家・旗本・などが本陣で重ならないように、家臣たちは一年或は何ヶ月も前から予約をして、細かな日程を組んでいた。通常は宿泊のトラブルはなかったが、川止め等があると、めんどうなことになった。大名が泊まるとなると、門と玄関にはその大名の紋を染めた慢幕が張られ、同様の提燈もかけられた。門前には官名を書いた関札が立てられた。テレビドラマでもよく見られる、大きな看板である。ただし「様」のような敬称は書かない。本陣側は大名のために大変な用意をしていたわけだが、旅籠と違い料金は決められておらず、謝金の形でしかお金は払われなかった。外見は立派でも内情は乏しい大名が大金を出すわけがない。本陣もまた常に厳しい経済状態であった。明治になると、脇本陣家に比べ、本陣家が次々没落していくのは、こうした理由でもあった。
文献:慶應義塾大学 三田情報センター 文献シリーズ22≪広重 東海道 錦絵を読む≫ |
| ※ お断り 広重は生涯で出世作「保永堂版・東海道五十三次」のほかに20種類以上の東海道錦絵を描き続けたとされています。(文献 はしがきより) そのため、絵皿の風景と宿場の解説が一致していないものもございます。 ご承知おき下さい。 |
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