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| 写真提供 高橋屋観山荘 |
| 資料提供 慶應義塾大学 |
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亀山 雪晴 保永堂版(天保三・四年頃刊) |
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雪晴れの城下町の光景である。急峻な城の石垣と左下の城下町との両者が、バランスよくレイアウトされている。この亀山城は台地上に築かれた平山城で、胡蝶城とも呼ばれる。江戸中期まではたびたび城主が替わったが、当時の石川家(六万石)は延享元年(一七四四)から明治維新まで城主であった。もとは三層の天守閣があったが、寛永の頃壊され、その後正保頃その跡に単層の多門櫓が築かれた。この絵に見える櫓はこの多門櫓といわれている。この櫓は東西八間・南北六間の台上の武庫で、現在の亀山城にただ一つ残された当時の建物である。単層ではあるが、本丸の高峻な石垣上に築かれているので、この絵のように城の偉容が感ぜられる。多門櫓とすると、右の門は京口坂から上る石坂御門であろうか。今、大名行列に似た行列が、門に向かって登って来る。立派な御駕籠も見えるので、大名行列のようでもある。参勤交代で在所入りする城主の石川氏の行列と見るのも、話としてはおもしろいが、同氏のような譜代大名は毎年六月か八月に交替して江戸を出発するので、雪の降るこの時期ではない。櫓の形が少しばかり似ているだけで、多門櫓に比定するわけにはいかない。広重の他の東海道のシリーズを見ると、「狂歌入東海道」「竪絵東海道」「美人東海道」は正面方向から本図とよく似た形の門と櫓を眺めた構図で、「隷書東海道」は城の堀と橋を俯瞰する構図である。「竪絵東海道」ではこの櫓が二層に変わっている。どうやら最初に保永堂版ができ、その絵の構図から次々と新たな絵が生まれたと見るべきであろう。隷書東海道は大手門を描いたとも見られないこともないが、城・橋・堀という城のイメージを構図に用いたに過ぎないのかもしれない。広重は亀山城の急峻な石垣が印象に残り、こうした城門と大名行列をあわせた構図を作り、季節も実際に体験した夏から、冬の雪景色に置き換えて描いたのであろう
文献:慶應義塾大学 三田情報センター 文献シリーズ22≪広重 東海道 錦絵を読む≫ |
| ※ お断り 広重は生涯で出世作「保永堂版・東海道五十三次」のほかに20種類以上の東海道錦絵を描き続けたとされています。(文献 はしがきより) そのため、絵皿の風景と宿場の解説が一致していないものもございます。 ご承知おき下さい。 |
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