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| 写真提供 高橋屋観山荘 |
| 資料提供 慶應義塾大学 |
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石薬師 問屋場ノ図 狂歌入東海道(天保後期刊) |
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前の宿から運ばれてきた荷物を、次の宿へと運搬引き継ぎ業務を行うところを問屋場という。駅伝の中継地である。建物の中で事務をとるところは腰高に作られ、肩の高さであるのは馬上からでも用事が足せるためともいう。問屋場が二ヶ所ある宿場も多い。この石薬師は一ヶ所だけで、本陣の向いにあった。江戸時代の街道では、幕府により公定値段が決められ、武士だけでなく、町人もここで馬や人足・駕籠を雇うことができ、次の宿場まで安全に運んでくれた。この問屋場には問屋二人(庄屋兼任の薗田正八郎と松之助)・年寄三人・帳付四人・人馬指六人が決められていたが、交替制で問屋一人・年寄一人・帳付一人・人馬指二人だけが詰めていた。人馬指は人足指と馬指のことで、帳付の下働きで、駕籠・馬・人足の割当をする忙しい仕事であった。大名が通るなど、大事の時だけ全員が集まった。幕府の公用の旅行者の人馬継立については、各宿の問屋場に江戸の伝馬所から連絡が届いていた。参勤交替の大名についても、何ヶ月も前から役人がきて細かい連絡がなされていた。ここでは、こうした乗り物や荷物の他に飛脚の業務もしていた。幕府の公用の手紙や品物を運ぶ継飛脚を引き継ぐために、雨風にも走り通せる健脚の人足を雇っておかなければならなかった。受け渡しの際には点検して、受領書を渡すという、厳粛な取扱いをしていた。場合によっては、夜間の飛脚の運行もあった。この絵の右方で汗を拭っている人足は隣宿から荷物を運び、ここで交替したばかりである。馬の足にも気をつかっている。左方はこれから出発する人足たちと思われる。駕籠では、相棒が掛りに何か注文でも付けているのであろうか。公定料金は、次の庄野まで本馬と乗掛は五十一文(約七百六十円)、軽尻は三十五文(約五百二十円)、人足は二十七文(約四百円)である。当時の石薬師宿は伊勢詣りの客も近江や大和からの物資も通らないので、人馬の稼ぎが少なかったという。
文献:慶應義塾大学 三田情報センター 文献シリーズ22≪広重 東海道 錦絵を読む≫ |
| ※ お断り 広重は生涯で出世作「保永堂版・東海道五十三次」のほかに20種類以上の東海道錦絵を描き続けたとされています。(文献 はしがきより) そのため、絵皿の風景と宿場の解説が一致していないものもございます。 ご承知おき下さい。 |
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