![]() |
| 写真提供 高橋屋観山荘 |
| 資料提供 慶應義塾大学 |
|
−39−
岡崎 矢はぎのはし 行書東海道(弘化刊) |
![]() |
|
日吉丸(秀吉)と蜂須賀小六との出会いで名高い矢矧(作)大橋の光景である。この橋は高欄付きの板橋で、長さは百五十六間(二八四メートル)、橋桁は各三本づつ全部で五十二組が建てられていた。遠方右側に岡崎城が見えるので、右から左に向かう旅人は西上していることがわかる。最左の中間二人は、槍持ちと行列の着る雨合羽を集めた合羽籠である。揃いの法被であるので、二人とも大名行列のかたわれのようにみえる。槍を立て緊張して歩いた岡崎の城下町を、一歩踏み出した行列は、次の集合地へ向かってバラバラに足を進めて行くのであろうか。その後ろを右に進む僧は勧進聖で、『本堂建立』が幟に染め抜かれているように、建立基金を集めて街道を旅している。その前には番傘をさして馬に乗った婦人がいる。武家は鞍に鐙をとりつけ、そこに足をかけたが、この絵のように庶民は鞍下の横木や馬の背に直に足をのせていた。岡崎城はこの矢作川と乙川(大平川)の合流点の丘上に築かれた城で、徳川家康は天文十一年(一五四二)ここで生まれた。この絵の時代は五万石の本多家が城主である。家康の生地ということで要地とされ、代々譜代大名が封ぜられた。『五万石でも岡崎さまはお城下まで船が着く』の歌通り、城の南側乙川岸には船着場があった。天守閣は元和三年(一六一七)に再建された三層の建物である。この絵では二層に見えるが、「保永堂版」や「竪絵東海道」では三層に描かれている。東方に井戸櫓、南方に附櫓を伴った複合天守閣であったので、この絵を見ても、白壁の櫓が三棟並んでいる様子がわかる。但し、「隷書東海道」「狂歌入東海道」もまた、同位置から城を描いているが、この絵と同様にいずれも二層である。岡崎は旅籠屋一一二軒の大きな宿場でもあった。人口は男三、〇一八人・女三、四一三人と圧倒的に女が多い。岡崎女郎衆の言葉通りであったようだ。
文献:慶應義塾大学 三田情報センター 文献シリーズ22≪広重 東海道 錦絵を読む≫ |
| ※ お断り 広重は生涯で出世作「保永堂版・東海道五十三次」のほかに20種類以上の東海道錦絵を描き続けたとされています。(文献 はしがきより) そのため、絵皿の風景と宿場の解説が一致していないものもございます。 ご承知おき下さい。 |
|
|
株式会社 宮原新聞舗 〒955-0861新潟県三条市北新保1-12-14 TEL.0256-33-1187 FAX.0256-34-5715 MAILmiyahara@yc-sanjo.com |