写真提供  高橋屋観山荘
                                         資料提供  慶應義塾大学

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藤川 棒鼻ノ図
保永堂版(天保三・四年頃刊)



 各宿場の入口(外れ)には、絵のように傍示杭(「是より内、何処々々」と書かれる)や表示板が立てられ、棒鼻(棒端)と呼ばれていた。左右に石垣を組み、宿内と街道を区別していた。
 今、御幣をつけた馬二頭を囲んで、行列が宿場に入ってくる。宿役人二人が土下座して、かしこまり、行列を迎える。おそらく江戸幕府が京都の御所に送る、八朔御馬献上の行列であろう。旧暦の八月一日には八

朔の祝いが行われ、御所や公家のアイダには、贈物のやりとりの習慣があった。幕府にとっても、この日は天正十八年(一九五〇)に家康が江戸に入府したという、重要な祝日であった。広重は天保三年(一八三二)、絵師としてこの行列に同行し、京都に上ったといわれている。現代でいえば、同行カメラマンといったところであろう。馬の前に見える挾箱の紋は五枚笹に似た、はっきりしない紋であるが、同じ構図の「狂歌入東海道」池鯉鮒のかたばみ紋同様、徳川家の葵紋を示したものではないだろうか。疑問はあるものの、ともかく天保三年上洛説に従って考えてみたい。八月朔日(一日)は現行の八月二十六日に当たる。本館所蔵「二條家内々番所日誌」をみると、この夏の京都は暑かったらしく、六月十八日(現行の七月十五日)から八月四日まで一日の曇日もなく、晴天が続いたことが記録されている。八朔の前日夕刻四時頃に雷があったこともわかる。広重の東海道の旅は猛暑にせめたてられたことだろう。通常二週間あれば京都に到着するが、大井川など大きい川の多い、東海道はどこで川止めにあうかわからない。随分早めに江戸を出発したであろう。これだけ暑い晴天日が続けば、まず、川止めにあうことはなかったろう。もう一度絵を見よう。土下座した人々の左には仔犬がころげまわる姿がある。その左にかしこまって座る仔犬がいるのは、いかにも錦絵らしい楽しさである。


文献:慶應義塾大学 三田情報センター 文献シリーズ22≪広重 東海道 錦絵を読む≫
  ※ お断り
 広重は生涯で出世作「保永堂版・東海道五十三次」のほかに20種類以上の東海道錦絵を描き続けたとされています。(文献 はしがきより)
 そのため、絵皿の風景と宿場の解説が一致していないものもございます。
 ご承知おき下さい。


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