写真提供  高橋屋観山荘
                                         資料提供  慶應義塾大学

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吉田 豊川橋
保永堂版(天保三・四年頃刊)



 吉田城から豊川(吉田川)に架かる吉田大橋を眺めた景色である。吉田(現在の豊橋)は松平家七万石の城下町である。この城は豊川の左岸に作られ、本丸は川岸にあり、二の丸・三の丸はその南に置かれていた。江戸時代でも本丸には天守閣はなく、三層の櫓が修理中で、足場の上から職人が手をかざしているところが描かれている。本丸にある五つの櫓の内、二層の櫓は入道櫓だけで、他は三層であるので、入道櫓のようにも思えるが、こうした絵にそれほど厳密な否定をする必要はないかもしれない。遠方の高い山は、砥鹿神社(三河国一宮)奥社の本宮山(七八九メートル)であろうか。鳳来寺山はもう少し右方と思われる。左遠方に見える吉田大橋は、東海道では岡崎の矢作の橋と並ぶ大橋で知られていた。『東海道宿村大概帳』を見ると、高欄付の板橋で、長さが九十六間(一七四メートル)あったことがわかる。当時の道中記には橋長百二十間(二一八メートル)と記載されているものが多い。道中記はまた川幅を九十間程としているので、九十六間という橋の長さが妥当であろうか。大橋の向こう側は下地の家並みである。集落は川に沿って左右に伸びている。ここから右に豊川稲荷に行く道が分岐する。この稲荷は妙厳寺の鎮守の茶枳尼天のことで、信者が多かった。東京赤坂の豊川稲荷は大岡越前守が邸内に、信仰する茶枳尼天を安置した御堂に由来するという。この橋の下の南側が吉田港で、伊勢方面や上流へと船が通っていた。ここから海上を伊勢の白子と川崎に行く船便は、伊勢詣りの旅人に人気があり、年間三・四千人が利用していた。おかげまいりが盛んの時には、十倍の三万人に及んだという。こうした直接伊勢に行くルートの人気が上ると、宮(熱田)など伊勢詣りの多い宿場では、客が減少する問題も起きたようだ。


文献:慶應義塾大学 三田情報センター 文献シリーズ22≪広重 東海道 錦絵を読む≫
  ※ お断り
 広重は生涯で出世作「保永堂版・東海道五十三次」のほかに20種類以上の東海道錦絵を描き続けたとされています。(文献 はしがきより)
 そのため、絵皿の風景と宿場の解説が一致していないものもございます。
 ご承知おき下さい。


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