写真提供  高橋屋観山荘
                                         資料提供  慶應義塾大学

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白須賀 汐見阪図
保永堂版(天保三・四年頃刊)



 汐見坂は現在でも遠州灘を見おろす、ダイナミックな眺めの景勝地である。白須賀の宿場はこの坂を右に登りきったところに位置している。坂の右下方には網を干す、沿岸の漁村が描かれている。今、白須賀から汐見坂を大名行列が下っている。侍や人足の笠に混じって、二つの挾箱や槍が見える。江戸時代の大名は一年交替で、半数は江戸、半数は国元にいるように義務づけられ、妻子は人質に取られた形であるので、江戸を離れることができなかった。大名の格付けにより参覲交替の時期等が異なり、親藩の紀州家と尾張家は三月、譜代大名は六月か八月、外様大名は東西に分けて四月に交替した。この他、親藩でも水戸家は副将軍であるので江戸常住、関東の大名は半年交替で国元と江戸の両地にいた。二月と八月が交替月である。
 広重の白須賀は、この保永堂版の他に「行書東海道」「隷書東海道」「狂歌入東海道」「人物東海道」「竪絵東海道」「美人東海道」の各シリーズともに、汐見坂を描いている。次の二川も宿間の立場の猿ヶ馬場ばかりであるところをみると、両宿ともに広重にとっては、さして印象のなかったところでもあろうか。白須賀の宿は元はこの坂の左下方(元白須賀)にあったが、宝永四年(一七〇七)の津波で流され、現在地の坂の上に移動した。この坂は当時から有名な景色であったらしい。『東海道名所図会(寛政九−一七九七−刊)』には、「白菅の東の阪路をいふ。眼下に滄海を見れば、汐見坂の名あり。いはゆる遠州七十五里の大灘眸を遮り、弱水三万里の俤あり。渚の松は緑こまやかにして、沖にこぎつれる漁舟は雲の浪にみえかくれ、波間の鶚、浦端の千鳥みなこの汐見坂の眺望なるべし」と書かれている。


文献:慶應義塾大学 三田情報センター 文献シリーズ22≪広重 東海道 錦絵を読む≫
  ※ お断り
 広重は生涯で出世作「保永堂版・東海道五十三次」のほかに20種類以上の東海道錦絵を描き続けたとされています。(文献 はしがきより)
 そのため、絵皿の風景と宿場の解説が一致していないものもございます。
 ご承知おき下さい。


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