写真提供  高橋屋観山荘
                                         資料提供  慶應義塾大学

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舞 坂
隷書東海道(弘化刊)



 東海道は、舞坂・新居間は陸路ではなく、一里の船旅である。この渡し場は、明応七年(一四九八)の地震で浜名湖の海岸線が切れ、海とつながってしまった所であるために、今切の渡しと呼ばれている。東海道が舞坂の宿場を西に直進して、海にぶつかったところが船着場である。現在でも昔と同様の道筋であるので、町の大通りをまっすぐに西に進むと、そのまま海に落ち込んでしまう。
 大きな荷物を運んでいるが、次の便船に積み込んでいるのであろう。天秤で荷物を振り分けた男がいるが、一般には前側の風呂敷に、日常出し入れすることの多いものを入れていたという。この渡しは七ツ(四時)過ぎには船が止まった。ここから新居まで、船賃は一人が十八文(二百七十円)、馬と大荷物(本馬)・乗掛が五十三文(八百円)、馬と軽い荷物(軽尻)が四十七文(七百円)である。『五街道分間延絵図』を見ると、渡し場は中央に往来上り場(一般の乗り場)、左右には諸上り場と朝鮮人乗り場(朝鮮通信使用の乗り場)が作られている。江戸幕府への親善使節である通信使は宝暦十四年(一七六四)以後、江戸に来ていない。最後の来朝は文化八年(一八一一)であるが、その時は対馬で行事が終わっている。渡し場の向こうには山が見える。「保永堂版」「行書東海道」「狂歌入東海道」「人物東海道」「堅絵東海道」も同様の山が描かれているが、この辺りは平地ばかりで、実際にはこのような山はない。『東海道名所図会』所収図とも違うようだ。
 船旅は婦人には都合の悪いことが多く、嫌がられることが多かった。前宿の浜松から全十四里の本坂越(姫街道)が分岐して浜名湖の北岸を通り、御油で再び東海道に合流する。この道を通れば船に乗らずにすんだ。今切の地名もまた、婚礼の旅には縁起が悪く、花嫁行列は東海道を避けた。「姫街道」とはこういう理由で名づけられたのであろう。


文献:慶應義塾大学 三田情報センター 文献シリーズ22≪広重 東海道 錦絵を読む≫
  ※ お断り
 広重は生涯で出世作「保永堂版・東海道五十三次」のほかに20種類以上の東海道錦絵を描き続けたとされています。(文献 はしがきより)
 そのため、絵皿の風景と宿場の解説が一致していないものもございます。
 ご承知おき下さい。


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