写真提供  高橋屋観山荘
                                         資料提供  慶應義塾大学

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浜 松
狂歌入東海道(天保後期刊)



 浜松市街の夕暮時を描いている。旅籠からは客引き女が出てきて、やかましく旅人に今晩の宿りを強要する。町の背後には、石垣の上にひときわ高く、浜松城がそびえている。浜松は文化十四年(一八一七)に水野忠邦が佐賀より入封してから天保の改革の失敗後、弘化二年(一八四五)に二万石減封されて出羽山形に移封されるまで、水野家七万石の城下町であった。この後、明治維新まで上野館林から移封された井上家が継承していた。前項の天竜川を渡った西岸が中の町(現在浜松市中野町)で、この辺りが、江戸・京都の中間点とされていた。江戸から西上する旅人にとっては、ようやく半分を過ぎたという安堵感とまだ半分の道のりがあるという不安感と両様の想いがあったことと思われる。
 浜松は城下町であるとともに、本坂越(姫街道)と分岐する交通の要地でもあったため、大きな宿場町であった。本陣だけで全六軒、旅籠は全九十四軒もあった。これだけ本陣が並んでいるせいか、脇本陣は一軒もなかった。周辺の宿場の旅籠と比べてみると、見附五十六軒・金谷五十一軒・府中四十三軒・吉原六十軒であるので、いかにこの宿場が大きかったかがわかる。東海道は浜松上の大手門前で鈎の手に大きく南方に曲がる。この絵は、この先に伸びる宿場の中心地の伝馬町や旅籠町の光景かと思われる。実際には城はもう少し右寄りで、右方が大手門であろう。馬に乗った旅人や、背中にむしろを背負った巡礼の一団の歩む姿が見える。旅籠の二階から、既に宿りに着いた旅客が表通りを眺めている。右から二軒目の旅籠の階下の赤い丸の中に、「佐」の文字があるが、本図の版元の佐野屋喜兵衛の広告である。左から三軒目の黒い丸の中に見える「立」は広重の別号「立斎」の略称である。上方の狂歌は「紀広持 春の日のあゆみもおそきあしたづの、かすむすがたやちよの浜まつ」。


文献:慶應義塾大学 三田情報センター 文献シリーズ22≪広重 東海道 錦絵を読む≫
  ※ お断り
 広重は生涯で出世作「保永堂版・東海道五十三次」のほかに20種類以上の東海道錦絵を描き続けたとされています。(文献 はしがきより)
 そのため、絵皿の風景と宿場の解説が一致していないものもございます。
 ご承知おき下さい。


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