写真提供  高橋屋観山荘
                                         資料提供  慶應義塾大学

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金谷 大井川遠岸
保永堂版(天保三・四年頃刊)



 保永堂版の島田・金谷の小題に記されるように、大井川は東岸島田側が駿河、西岸の金谷側は遠江である。今、大名の一行が川を渡り、次々と金谷側に到着している。大きな駕籠を乗せた輦台や大荷物と槍が渡っている。先頭の方には、商人らしい荷物を背負った旅人がいるが、これは大名行列とは別であろうか。その右にはすでに仕事を終えた人足が、輦台をおいて座ったり寝そべったりして休息をとっている。肩車で渡った者は岸に着くと、人足が腹這いになり肩から下りる。旅人が島田側の川会所で買った油紙でできた川札を人足に渡すと、人足は髻に結んで金谷側まで運び、それから川会所に行き支払いを受けた。前述のように、この徒歩渡しは水深が脇通(百三十六センチメートル)を越えると、川止めになり、幕府公用の御状箱だけが渡れたが、五尺(百五十二センチメートル)を越えると、これもできなかった。先方の山の中腹に見える町並みが金谷の宿場である。宿場は緩やかな坂道に沿って家が続いていた。この山上が牧の原で、現在では一面に茶畑が広がっている。大井川はふだんは水量が少ないが、南アルプスから流れ落ちる川なので、一雨でも降ると、激しい流れとなることが多かった。江戸幕府を守るために、渡し船を置かず、不便な徒歩渡しにしていたといわれている。しかしながら江戸時代も中期を過ぎると、参覲交替の大名ばかりでなく、幕府の旗本・御家人、更に商人なども用向きで東海道を往来することが激増した。非公式ではあるが、幕末にはこの下流で洲をつないで仮橋が作られたこともあった。幕府もまた川止めの多い徒歩渡しから、渡し船に改めるように幾たびか計画をしたが、川止めとなると繁盛する島田・金谷両宿の嘆願によって実現できなかった。人足だけでも東西両岸には三百五十人(幕末には実際には五百人以上という)が定められていた。


文献:慶應義塾大学 三田情報センター 文献シリーズ22≪広重 東海道 錦絵を読む≫
  ※ お断り
 広重は生涯で出世作「保永堂版・東海道五十三次」のほかに20種類以上の東海道錦絵を描き続けたとされています。(文献 はしがきより)
 そのため、絵皿の風景と宿場の解説が一致していないものもございます。
 ご承知おき下さい。


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