写真提供  高橋屋観山荘
                                         資料提供  慶應義塾大学

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興 津
おきつ川さつたの梺

竪絵東海道(安政二刊)



 前述の薩捶峠は江戸時代初期までは、そそり立つ崖下を通る、海岸べりに作られた難所として知られていた。明暦元年(一六五五)、朝鮮通信使が来朝して江戸に下向した時に、山の中腹に道が開かれ、天和二年(一六八二)に再度同通信使が下向したときにも、明暦の道より上部北側に新しい道が作られたという。海沿いの道を下道、明暦の道を中道、天和の道を上道と呼んでいた。『東海道宿村大概帳』(天保十四年調)の記述では、明暦の頃、高波で山崩れが起き、上記の中道ができたようにも思われる。
 この絵は興津の東はずれを流れる興津川である。対岸は興津宿に続く町並みで、こちら側右方が旅をしてきた由井側である。中央を人足に肩車して川を渡る男女二人は、夫婦旅であろうか。人足を頼まず荷物を頭に乗せる人、大きな荷を担ぐ二人の人足、その右には飛脚、左方には荷を山に積んだ馬が渡っている。休んでたばこに火をつけている男もいる。興津川はこの絵のように、夏場は徒歩(かち)渡しであったが、十月五日から三月五日までは水量の少ない時期であるので、仮橋が架けられていた。通常水深を一尺五寸(約一メートル)になると馬の通行が止まり、四尺三寸(約一・三メートル)になると通行は止められた。人足の賃金は一尺四寸までは十二文(百八十円)、水量の多い四尺三寸では四十八文(七百二十円)であった。冬場の仮橋は無料である。『東海道宿村大概帳』に「一.洞村地内興津川川越会所有之、川高札無之、二.右興津川朝鮮人来朝之節は、御入用ニ而橋渡し相成候由、」と書かれているように、朝鮮通信使が来朝した時には、橋が架けられるようになっていた。前述の岩淵(蒲原)同様、興津宿内からも身延道が分かれる。

文献:慶應義塾大学 三田情報センター 文献シリーズ22≪広重 東海道 錦絵を読む≫
  ※ お断り
 広重は生涯で出世作「保永堂版・東海道五十三次」のほかに20種類以上の東海道錦絵を描き続けたとされています。(文献 はしがきより)
 そのため、絵皿の風景と宿場の解説が一致していないものもございます。
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