写真提供  高橋屋観山荘
                                         資料提供  慶應義塾大学

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箱根 夜中松明登り
隷書東海道(弘化刊)



 箱根湯本から、右に巣雲川を見ながら、一路芦ノ湖岸の関所を目指して、ひたすら山道を登る光景である。画面左方に「夜中松明登り」と記されるように、前後に松明(たいまつ)を持った人足のいる駕籠を先頭に、旅人たちが登っていく。広重の他の東海道シリーズにもよくある図柄であるので、毎日見られた光景なのであろう。昔は夜間の旅は禁止されていたので、もちろん今いう夜の旅ではない。日本橋でふれたように、明六ツ(朝六時)が夜明けになる時刻編成であるので、七ツ(朝四時)に出発するとなると、夜明けまで二時間は暗い道を歩かなければならなかった。現代風にいうと早朝の箱根路であろう。箱根の駕籠は山駕籠といい、通常の駕籠にくらべ、竹で編んだ頑丈な造りで、底を円形にこしらえていた。箱根の関所は明六ツ(朝六時)より暮六ツ(夕方六時)までしか開いておらず、夜間は閉門である。うしろめたい脛に疵もつ旅人が関所を抜けようとしても、夜間の箱根山中には、追はぎやたかりが待ち受けていた。昼間の厳重な関所に変わって、皮肉にも夜は彼らが肩代わりして取り締まりを引き受けていたようにもみえる。一般の旅人が関所を通るためには、現在の身分証明書にも似た身元引受人の町役人や菩提寺が作る往来切手と、町奉行や代官等が作る関所手形を用意しなければならなかった。入り鉄砲と出女の取り調べがやかましかったといわれている。江戸時代初期には、人質ともいえる大名の婦女の逃亡を心配していた。当時は平和な時代になってはいたが、婦人の調べは人見女が厳重に調べていた。それに較べ、この関所では鉄砲の調べはほとんどしていなかったようである。鉄砲は遠州新居で行なっていたため、関ヶ原の合戦から二百年もたった広重の時代には、その必要性もうすれていたのであろう。

文献:慶應義塾大学 三田情報センター 文献シリーズ22≪広重 東海道 錦絵を読む≫
  ※ お断り
 広重は生涯で出世作「保永堂版・東海道五十三次」のほかに20種類以上の東海道錦絵を描き続けたとされています。(文献 はしがきより)
 そのため、絵皿の風景と宿場の解説が一致していないものもございます。
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