勝っておごらず
敗けてくやまず

人&人リレー Vol.10 2002年5月10日号




 


捧 孝夫

Takao Sasage (63才) B型  三条市生

●県バトミントン協会副会長
●三条バトミントン協会 会長

三条実業高校定時制在学中からバトミントンを始める。
1956年の定時制県大会、団体戦で優勝し、北陸四県定時制大会に出場。66年には捧兄弟を中心とする(株)捧製作所チームとして県下実業団大会で優勝。
以後4年間は県下一位の座を守り続けた。
指導者としても、選手の育成と技術の向上に貢献した。
(有)エステックス代表取締役。




1954年、今の三条バトミントン協会の前身である、バトミントンクラブが発足した。
私が、バトミントンを始めたのもちょうどこの頃。県内では、まだ目新しいスポーツで三条でもあまり知られていなかった。
しかし、1964年、新潟国体のバトミントン会場が三条に決定したのを機に、知名度が上がり競技人口も増えた。指導者も積極的になり市内の中学校にもバトミントンクラブができた。


定時制バトミントン部で活躍していたころ
(前列1番左
   が捧さん)

三条実業高校定時制1年生の時、校内バトミントン大会で、当時卓球部に所属していた私が、バトミントン部の部員に勝った、ということで先輩の勧誘を受け入部したのがバトミントンを始めることになったきっかけ。翌年にはレギュラーになり3年生の時には定時制県大会団体戦で優勝し、今でいう全国大会レベルに相当する北陸四県定時制大会に出場。それがやみつきになり、卒業後も母校のクラブのコーチとして毎日通っていました。そんな時1964年の新潟国体で三条市がバトミントン会場になった。私も副審判として参加し、多くの選手から様々な刺激を受け、それをきっかけに自分の中で「もっと強くなりたい」という気持ちが高まった。それからは、人以上に練習し、大会には積極的に参加した。1966年には自分の兄弟を中心にチームを組み(株)捧製作所として出場した県下実業団大会で優勝。それからの4年間は実業団チームで県下一位の座を守り続けた。
この時、県大会には県内のトップ企業が多く出場しており、私たちのような兄弟だけの個人会社が太刀打ちできるものではないと思っていた。しかし、スポーツの世界では違った。企業の大きさではなく、強い者が勝つのだということを痛感しました。


定時制3年
県大会優勝の時
(前列右から
 2番目が捧さん)

三条バトミントン協会で指導者の立場にあった私はまず「指導者は自らが強くなければいけない。そして、信頼されなければいけない。」という信念をもっていました。そんなことから和を保つため自宅の一室をバトミントンのために開放しました。バトミントンをする多くの仲間たちが日々集まり、技術的なことや練習法などを話す交流の場となりました。
まだ新しいスポーツで、施行錯誤しながら技術を磨いていた私たちにとってこの交流の場は貴重な存在でした。そして麻雀もよくやっていたので「リーチクラブ」なんて呼ばれていたなぁ。
そんなことも今ではいい思い出。40才頃、アキレス腱を切ってしまいましてね、それを機に現役を引退しました。バトミントンは私に多くのことを学ばせてくれた。
バトミントンで鍛えた持久力、勘、駆け引きは仕事でも通じるところがあります。また、じっと堪えながらシャトルを拾い続けた気持ちは今でも大事にしてます。
バトミントンは私の生活そのもの。これだけ夢中になれるものがあって本当によかった。





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