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栃木国体 24歳
ジャーク
137.5キログラム |
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1988年 小林 寛 32歳。オリンピック出場の最後のチャンスがめぐってきた。
ソウルオリンピックの最終選考会では最年長。これで俺も有終の美を飾るかぁ。
甘く考えていた・・・のかなぁ。 あと一歩、力がなかったんでしょうね。
52キロ級で、モスクワ、ロサンゼルス、ソウルと3度のオリンピック出場のチャンスをつかみながら、それを生かしきれなかった、無念です。
やっぱり、オリンピックは行かんきゃだめだね。
この最終選考会から1年後、妻の実家に婿養子に入り、姓を『野水』と改めました。 |
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栃木国体
トータル2位
スナッチ
105キログラム |
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ウエイトリフティングを始めたのは三条工業高校へ入学してから。中学時代は器械体操をやってましたから、少しは筋肉とバネがあったんでしょう。当時のウエイトリフティング部顧問の中村節夫監督に強く勧誘されましてね、運命を感じて(笑)入部しました。
そしたらなぜかすごく楽しかったんですよ。バーベルを挙げることが。
体操をやっていたおかげで筋肉もあったし、柔軟性があったから、けがもなかった。
筋肉がついていたからパワーもあった。それが後につながったのでしょう。
高校2年生で国体初出場4位。3年生で国体優勝。どんどん力がついていきました。
高校卒業後は中央大学に進学。大学時代はさまざまな刺激を受けました。
フランスでのジュニア選手権やハンガリーでのパンノニア選手権など世界の舞台を体験。
外国人選手のすごさ、特にキューバの選手のジャンプ力と筋力が印象的でした。
同じ人間とは思えないような、自分がこれまで思っていた感覚がくつがえされるようなそんな思いでした。世界選手のレベルを知りましたねぇ。
それから、なんといっても中央大学ウエイトリフティング部の三木功司コーチとの出会い。三木コーチの指導法、練習法全てが自分にとって刺激的でもあり、魅力的でもありました。三木功司のようになりたい・・・。そう思いながら練習を続けました。
卒業後は新潟に戻って三条市役所に就職。
三条ウエイトリフティング協会に所属していましたが、競技がら個人での練習が多く、一人での孤独な練習が始まりました。三条市総合体育館ウエイトリフティング室の大きな鏡を見ながらフォームチェックするんです。そうコーチは鏡、パートナーは鏡の中の自分でしょうか(笑)。自分と記録との闘いです。しかし、それだけではやはり限界がありました。 |
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ソウルオリンピック最終選考会後は気がぬけたように、しばらくバーベルから離れていました。 そう、10年くらい・・・。気力、体力ともに限界だったのでしょう。
それが、最近しぜんと体力作りを始めていました。
力を入れてがんばっている状態がなんとも気持ちよくて、トレーニング後の筋肉痛が心地いい。体に感覚がしみついているのでしょうね。
2009年には新潟で2巡目国体があります。選手としてではなく、選手を支える役員として今、走り出したところです。 |